就労継続支援B型の未来に、不安と願いを込めて【中編】──「選べる」はずの支援、「選ばせない」現実

【第3章】「声を上げると、不利益になる」

弟の就労先である就労継続支援B型の作業所では、支援と称した行為が時に本人の尊厳を奪うことがあります。

特に「身体拘束」という言葉は、高齢者介護や医療の現場で耳にすることが多いですが、障害福祉の現場にも存在します。

本来、身体拘束は「緊急性」「非代替性」「一時性」という三原則を満たす場合に限定されています。しかし、現場ではその原則が形骸化し、日常的に行われるケースもあるのです。

中編では、弟が経験した具体的な事例を通して、制度と現実の乖離を掘り下げます。

「選択の自由」は、ほんとうに自由なのか

障害福祉の現場では、本人や家族が「合わない」と感じたとき、選択肢はあるようでいて、実はとても狭い。そして声をあげた結果、別の場所を探すしかなくなる。
──そんな現実もあります。

本来なら場面に適していない対応を受けても、「抗議しても、環境がよくなる保証はない」「むしろ、波風を立てたことで冷遇されるかもしれない」「通い続けるには、今の場所しか現実的に選択肢がない」

──そう考えると、結局は何も言えなくなる。

B型作業所は「支援」が主眼に置かれているはずなのに、利用者本人よりも、施設運営側の都合が優先される場面が多々ある。

支援の現場であっても、いや、支援の現場だからこそ、「異議申し立て」が許されない空気がある。

「別の事業所を選ぶ自由」は制度上は保障されています。けれど実際には、「うまくいっていないから他を探す」とは、そう簡単には言い出せません。

私自身も、弟の通う事業所で支援の内容にどうしても納得がいかず、改善をお願いしたことがありました。しかし、対話を重ねた末に送られてきた文書には、こう記されていました。

「ご家族様が事業所の方針や対応にご納得いただけない場合は、他の福祉サービスや事業所への移行も選択肢の一つとしてご検討ください」

それは、施設からの「これ以上の対応は難しい」というサインでもありました。

一見、自由な選択があるように見えても、実際には「退所を促された」と感じる人も少なくありません。支援の中で本人や家族が声をあげることにリスクが伴うとしたら──。制度の理念そのものが、届くべきところに届いていない証なのかもしれません。

「ありがたく思え」「感謝しろ」
──そう言われているような空気。

実際、私が支援に対して疑問を投げかけたとき、誰も真正面から答えようとはしなかった。ただ、「施設の方針なんです。ご理解ください。」「間違っているのは分かっています。家族さんが正しいんですけど、すみません。」

──そう言ってくれる職員もいた。でも、その声が施設全体の方針を変えることはなかった。

現場スタッフは家族の提案に前向きである一方で、上層部が許可を出さずに制度的・管理的な壁になっている。

その壁が制度的な人員配置基準の問題か、あるいは上層部の心理的な拒絶感(「言いくるめられた」感)によるものか…

おそらく現場の職員も、私たちと同じように“言えない立場”だったのだと思う。誰かひとりが異議を唱えたところで、上層部の意向には逆らえない。

家族として「違和感がある」「納得できない」と感じたとしても、それを示した瞬間に、“ここにいられなくなるかもしれない”という恐れが現実になる。

職員も、家族も、声を上げづらい。
そんな空気が、確かにそこにあった。

支援の本質は、家族や本人が「文句を言わない」状態を保つことではない。本来は、「よりよい支援」を一緒に考える姿勢であるべきだ。

でも、今の現場にはその余裕がない。職員も、人手不足や制度疲弊の中で必死にやっている。だからこそ、「異議を言う人」は“面倒な人”と見なされる。

訴える手段があるようでいて、どこにも通じていない──そんな手詰まりを、私は何度も味わった。

私は一度、就労継続支援B型事業所の開設を検討したことがある。でも、私の住む市では「既に事業所が飽和している」とされ、新設は受け付けられなかった。

・・・飽和しているとは、なんだろう?

『送迎をしてくれるところか、親が送迎しなければならないところか』、

『弁当持ちか給食か、昼食は誰が作るのか』、

そして何より本当の理由『事業所の方針と合わないから、事業所を変えたい』

・・・これを言って、果たして別の事業所が受け入れてくれるのだろうか。

“きっと、面倒くさい保護者だ、受け入れるのにはリスクがある”と判断し、受け入れてくれないであろう。

そもそも弟は自閉症だ、環境の変化に耐えられるだろうか。

・・・飽和しているとはいえ、これじゃ、行ける所なんか、ないじゃないか。

選択肢がない。声も届かない。それが、今の福祉の一端なのかもしれない。

【第4章】制度の変化と、包摂のかたち

制度が変わろうとしている。「移行」「成長」「一般就労へのチャレンジ」──その流れは必要だと思う。

今は、昔と違って早期療育も広がり、障害児の中にも高い力を発揮できる子が増えてきた。

軽度の知的障害やグレーゾーンの子どもたちは、昔なら通常学級にいたかもしれない。けれど今は、より専門的な支援を受けるために、特別支援学校を選ぶことも増えた。

それは「包摂の後退」なのか「適切な支援の前進」なのか。

私個人としては、後者だと思いたい。
なぜなら、人は死ぬまで精神的に成長できる。

弟も、移行には至らないものの、日々小さな成長を重ねている。

ただし、制度が「評価しやすい人」に偏り、「評価しにくい人」を置き去りにすることは避けなければならない。

B型では、確かに限界もある。でもそこは、「働くことを諦めない」ための場所でもある。

もし制度の整備が進む中で、その場所が「移行できない人の最後の居場所」として扱われ、徐々に予算や支援の対象から外れていくことがあれば、それは社会の責任放棄だと思う。

弟が今日も、黙々とテープ貼りをしている。
その姿を、社会はどう見るのか。

私たち家族は、これからも問い続ける。

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──「移行」だけではない未来像を
【第5章】制度は誰のためにあるのか

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